「わかっているのにやらない」には理由がある——行動経済学を患者指導に活かす
2026-04-06
「薬を続けて飲んでくださいね」と説明した。「はい」と答えてもらった。それなのに、次の外来でまた飲めていない。
「動かないと回復しませんよ」と伝えた。頭ではわかってくれている。それでも、翌朝のベッドサイドでは「今日はちょっとしんどくて……」と言われてしまう。
患者さんが「わかっているのにやらない」とき、そこには意志の弱さではなく、人間の脳に備わった仕組みが働いています。行動経済学は、その仕組みを解き明かしてくれる学問です。
この記事では、行動経済学の基本的な考え方を看護師の現場に引きつけながら紹介します。理論の説明で終わるのではなく、「じゃあ明日の声かけをどう変えるか」というところまで一緒に考えていきましょう。
1. 行動経済学ってなに?——「人は合理的ではない」という前提
行動経済学が生まれた背景
経済学にはもともと「人は合理的に判断する」という前提がありました。損得をきちんと計算して、自分にとって最もよい選択をするはずだ、という考え方です。
でも実際の人間はそうではありません。損得を計算しているつもりでも、「なんとなく今日はいいか」「痛みが出たらどうしよう」「まだ大丈夫な気がする」——こうした感覚や感情が、論理よりも強く判断に影響してしまいます。
この「人は思ったほど合理的ではない」という事実を心理学の実験で示したのが、心理学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーです。1979年に発表されたプロスペクト理論は、人が損得をどのように評価するかのメカニズムを説明したもので、行動経済学の出発点になりました。カーネマンは後にノーベル経済学賞を受賞しています。
さらに2008年、経済学者のリチャード・セイラーと法学者のキャス・サンスティーンが『ナッジ』という本を出版しました。強制しなくても、ちょっとした「しかけ」で人の行動をよい方向に変えられるという考え方です。セイラーもノーベル経済学賞を受賞し、行動経済学は一躍注目される分野になりました。
医療との接点——患者と医療者がすれ違う理由
行動経済学は医療の場とも深くつながっています。大竹文雄・平井啓(編)による『医療現場の行動経済学:すれ違う医者と患者』(2018年)では、医療者と患者の認識のズレが行動経済学の視点で論じられています。
「正しい情報を伝えれば患者は合理的に行動する」という前提は、残念ながら現実には成り立たないことが多い。なぜなら人間は情報通りに動けないバイアスを持っているから——この視点は、医療者にとって大きな気づきになります。バイアスの存在を知ることで、患者さんの行動を責めるのではなく、より良い選択を支援するアプローチが見えてきます。
2. 患者さんの行動を読み解く4つのバイアス
現在バイアス——「将来のことより今が大事」
現在バイアスとは、遠い将来の利益よりも、今この瞬間の快楽や安楽を優先してしまう傾向のことです。
「薬を飲み続ければ5年後の合併症リスクが下がる」という情報は、論理的には正しい。でも「今日は面倒だ」「ひと粒くらいいいか」という感覚の方が、今この瞬間には強く働きます。未来の自分より、今の自分が勝ってしまうのです。
「ここにいれば、自分でできなくても職員さんが助けてくれる」という理由で退院に消極的な患者さんも、現在バイアスの一形態と言えます。今の安心感の方が、将来の回復や生活の質より重く感じられているのです。
現在バイアスがある患者さんに「将来どうなるか」を強調しても響きにくい。現在の行動とつながりやすい短期的なメリットにフォーカスした声かけが有効です。

損失回避——「得るより失う方が2倍怖い」
カーネマンらの研究で示されたのが、損失回避という傾向です。人は「1万円を得る喜び」より「1万円を失う痛み」をおよそ2倍強く感じます。
「リハビリをしたら回復できる」より「リハビリで痛みが増したらどうしよう」の方が強く感じられる。「検査を受ければ安心できる」より「検査で何か悪いものが見つかったら怖い」という気持ちが勝ってしまう。
ここで重要なのは、損失回避はそれ自体を「声かけに活かせる」側面もあるということです。「このままだと〇〇を失う」という損失フレームは、心理的に強いインパクトを持ちます。
ただし注意が必要です。「飲まないと脳梗塞になりますよ」のような脅威的な言い方は、不安や抵抗感を引き起こし、かえって患者さんが心を閉じてしまうことがあります。損失の事実を伝えながらも、責めたり脅かしたりしない言い方を選ぶこと——これが次の「フレーミング効果」の話につながります。
フレーミング効果——「同じ情報でも言い方で変わる」
フレーミング効果とは、同じ事実でも「どのような枠組みで伝えるか」によって、受け取り方や行動がまったく変わる現象です。
「この手術は死亡率10%です」
「この手術は生存率90%です」
→ 情報は同じ。でも受ける印象はまったく違う。
患者さんへの日常的な声かけでも、フレーミングは大きな役割を果たします。「動かないと回復しません」(否定フレーム)と「動くと回復しやすくなりますよ」(肯定フレーム)——伝えている事実は同じでも、受け取る印象がまったく変わります。
デフォルト効果——「何もしなければ、初期設定のまま進む」
デフォルト効果とは、選択を迫られたとき、人はあらかじめ設定された選択肢(デフォルト)をそのまま選びやすい、という傾向のことです。変更するには「意識的な判断と行動」が必要ですが、デフォルトを維持するのは何もしなければいいだけ。
有名な例が臓器提供の研究です。「提供する意思がある人がサインする(オプトイン)」方式の国より、「提供したくない人がサインする(オプトアウト)」方式の国の方が、臓器提供率(ドナー率)が大幅に高い。何もしなければ「提供する」がデフォルトになるからです(Johnson & Goldstein, 2003)。
看護の場でも、この原理は静かに働いています。
「次の薬、どうしますか?続けますか、やめますか?」と聞く → どちらもデフォルトではなく、患者さんは迷い始める
「このまま続けますね」と伝える → 継続がデフォルトになる
もちろん患者さんの意思は最優先です。「やめたい」という声は丁寧に受け取る必要があります。ただ、何気ない一言の設計が、患者さんの行動継続を自然に支えることがある——これがデフォルト効果の実践的な意味です。
3. 看護師にできるナッジのアプローチ
ナッジとは何か——強制せずに背中を押す
ナッジ(Nudge)とは、英語で「肘でそっとつつく」という意味です。セイラーとサンスティーンが提唱した概念で、「強制や禁止ではなく、環境や情報の提示の仕方を工夫することで、自然とよい選択をしやすくする」アプローチです。
たとえば、カフェテリアで健康的な食べ物を目線の高さに並べると、それだけで選ばれやすくなる。選択肢をなくすわけではなく、選びやすくするだけです。
医療現場でも同様のアプローチが注目されています。Voyerら(2015年)の研究では、医療場面でナッジを活用することで患者の行動変容を促せる可能性が示されています。また、糖尿病管理に関する系統的レビュー(Mslehi et al., 2020)でも、ナッジ理論を用いた介入の有効性が報告されています。
現場で使える3つの工夫
① フレーミングを変える
「〜しないとダメ」という否定形より、「〜すると〇〇できる」という肯定形に変えるだけで、患者さんの受け取り方が変わります。
NG:「動かないと回復しません」
OK:「動くと回復しやすくなりますよ」
NG:「飲まないと悪化しますよ」
OK:「飲み続けることで、今の状態を保てますよ」
② 小さな目標で「今」に近づける
現在バイアスに対抗するには、遠い将来の効果より近い将来の効果を伝えることが有効です。「5年後の合併症を防ぐために食事制限を続けましょう」より「食事を少し変えると、来週の血糖値が改善しやすくなりますよ」の方が、行動につながりやすい。同じ行動でも、時間軸を近づけるだけで受け取り方が変わります。
③ 社会的規範を活用する
「同じ病気の患者さんのほとんどが、退院後も外来でリハビリを続けていますよ」という情報は、一種の社会的証拠になります。「そういうものなんだ」と感じさせる形で伝えることが大切です。ただし、「あなただけできていない」というニュアンスにならないよう注意が必要です。
よくある誤解——「操作することにならないか?」
「ナッジって、患者を意図的に誘導しているんじゃないの?」——これは現場でも感じやすい、誠実な疑問だと思います。
大切なのは選択の自由を守っているかどうかです。ナッジは「特定の選択を強制したり、他の選択をできなくしたりしない」という点で、操作や強制とは異なります。あくまで「望ましい選択をしやすくする環境をつくる」ことが目的であり、患者さんが「No」と言える余地を常に残します。
「患者さんのために」という軸がある限り、ナッジは倫理的なアプローチです。

4. 会話例で見てみよう
場面①「薬を飲まない患者さん」——損失回避×フレーミング
背景:外来で、高血圧の患者さんと話せる時間ができた。前回から飲み忘れが続いているのが気になっていた。「なんとなく大丈夫かなと思って」と言っている。
NG例
「飲まないと脳梗塞になりますよ。ちゃんと飲んでください。」
損失フレームとしての心理的インパクトは強いですが、脅威的な伝え方は「心理的リアクタンス(反発心)」を引き起こしやすい。「また怖いことを言われた」と感じて話しにくくなったり、情報を遮断したりすることもあります。
OK例
「血圧の薬は、毎日続けることで効果が出るタイプなんです。飲み続けていると、数値が安定して、今の生活をこのまま続けやすくなりますよ。朝ごはんの横に置いておくと、忘れにくいと言う方が多いですね。」
- ・「〜すると〇〇できる」という肯定フレームで伝えている
- ・「今の生活をこのまま続けやすくなる」という現実的な利得を示している
- ・「朝ごはんの横に置く」という小さなナッジを社会的規範の形で提案している
場面②「食事制限が続かない患者さん」——現在バイアスへの対策
背景:朝のバイタル測定後、少し話せる時間ができた。糖尿病の患者さんが「頭ではわかっているんですけど、食べてしまって……」と打ち明けてくれた。
NG例
「食べてしまうと血糖値が上がりますよ。ちゃんと制限してください。」
「血糖値が上がる」という否定フレームと、漠然とした指示。現在バイアスに対して何も働きかけていません。「でも今は食べたい」という気持ちの方が勝ってしまいます。
OK例
「食事制限って、全部完璧にしようとすると逆にきつくなりますよね。まず夕食の白米だけ少し減らしてみるのはどうでしょう?小さな一歩の方が続きやすいことが多いです。」
- ・「全部やろうとしない」という現在バイアスへの現実的な対応
- ・「夕食の白米だけ」という今すぐできる小さな目標に絞ることで、行動のハードルを下げている
5. まとめ——伝え方を変えるだけで、反応が変わる
患者さんが「わかっているのにやらない」のは、意志が弱いからでも、あなたの説明が足りないからでもありません。人間の脳には、そもそも非合理な判断をしやすい仕組みがあるのです。
| バイアス | 現れ方の例 | 対応のヒント |
|---|---|---|
| 現在バイアス | 「今はいいか」「入院中の方が安心」 | 遠い将来より近い将来の効果を伝える |
| 損失回避 | 「痛いから動きたくない」「検査が怖い」 | 恐れていることは否定せず、フレームを変えて利得を伝え直す |
| フレーミング効果 | 同じ説明でも反応が違う | 否定より肯定形で、具体的な利得を伝える |
| デフォルト効果 | 促されなければ今のやり方を続ける | 望ましい行動をデフォルトとして設計する |
完璧に理論を使いこなす必要はありません。まず一つ、「〜しないとダメ」を「〜すると〇〇できる」に変えてみるだけでも、患者さんの反応が変わることがあります。
伝え方を変えることは、患者さんをだますことでも操作することでもありません。強制せずに、選択の枠組みを変えることで望ましい行動を引き出す——それが、看護師にできるナッジの本質です。
参考文献
- ・Kahneman, D. & Tversky, A. (1979). Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk. Econometrica, 47(2), 263–291.
- ・Thaler, R.H. & Sunstein, C.R. (2008). Nudge: Improving Decisions about Health, Wealth, and Happiness. Yale University Press.
- ・大竹文雄・平井啓(編)(2018)『医療現場の行動経済学:すれ違う医者と患者』東洋経済新報社
- ・佐々木周作・大竹文雄(2018)「医療現場の行動経済学:意思決定のバイアスとナッジ」行動経済学 第11巻, 110–120
- ・Voyer, B.G. (2015). 'Nudging' behaviours in healthcare. British Journal of Healthcare Management, 21(3), 130–135.
- ・Mslehi, L. et al. (2020). A systematic review of nudge theories and strategies used to influence adult health behaviour and outcome in diabetes management. Diabetes & Metabolism, 46(6), 450–460.
- ・Halpern, S.D. et al. (2014). Helping patients make better decisions: how to apply behavioral economics in clinical practice. PMC4219638
もっと深く学びたい方へ
ファスト&スロー——あなたの意思はどのように決まるか?
ダニエル・カーネマン 著(ハヤカワ文庫)
ノーベル経済学賞受賞者による行動経済学の名著。本記事で紹介した「損失回避」「現在バイアス」など、人間の意思決定のクセを深く理解できます。患者さんの行動の「なぜ?」が見えてくる一冊です。
Amazonで見る →医療現場の行動経済学——すれ違う医者と患者
大竹文雄・平井啓 編(東洋経済新報社)
行動経済学を医療現場に応用した日本発の一冊。患者と医療者のすれ違いがなぜ起きるのか、具体的な事例とともに解説されています。
Amazonで見る →実践 医療現場の行動経済学——すれ違いの解消法
大竹文雄・平井啓 編(東洋経済新報社)
上記の実践編。ナッジを使った具体的な介入方法が紹介されており、現場ですぐに活かせるヒントが詰まっています。
Amazonで見る →あわせて読みたい

この記事を書いた人
臨床ナースラボ 管理者現役看護師
日々の臨床で感じた「これ、もっと早く知りたかった」をもとに、チームで判断を揃えるための知識とツールを作っています。